お店の近所

本能寺

本能寺  当店より一筋東の寺町御池を少し下ったところに法華宗大本山本能寺があります。
 「本能寺の変」であまりにも有名なお寺ですが、織田信長が明智光秀の奇襲にあった本能寺は実はこの場所ではなく、当時は堀川三条から四条にかけてあった堀と土居を張り巡らせた大伽藍であったらしいです。現在は堀川高校あたりになり、「本能寺跡」の小さな石碑があるだけですが、元本能寺町という地名は今も残っています。
 本能寺の変でほぼ全体が消失した本能寺は豊臣秀吉の命により、現在の寺域に移転します。こちらも元々広大な寺域であったらしく、現在の京都市役所は上本能寺前町という住所にあり、移転した新しい本能寺の寺域であったことが伺われます。江戸時代の朝鮮通信使が京都滞在中に本能寺に宿泊したことからもその当時の格式がうかがい知れます。江戸時代には大変栄えた本能寺ですが、天明の大火と禁門の変にて二度消失しています。現在の本堂は1928年(昭和3年)に再建されたものです。
 写真は寺町通りに面した現在の山門です。過去の大伽藍の面影はほとんどありませんが、中には信長や家臣のお墓があり、本堂の隣にある宝物殿には信長の遺品や甲冑が展示されています。ちなみに宿坊ではありませんが、こちらのお寺では「ホテル本能寺」を経営されています。

京都市役所

京都市役所  当店より御池通を渡った河原町御池角にあります。
 1927年(昭和2年)に竣工し、設計者は京都大学工学部建築学科初代教授の武田五一です。築80年以上が経過し、耐震性が問題となり再建計画も出されましたが、予算と文化財保護の観点から耐震補強工事を施しての継続使用が決まりました。この建物は長らく京都市民の目にもなじんでおり、壊されなくて良かったと思います。

御幸町通り

御幸町通り  当店の面している通りです。寺町通りと麩屋町通りの間にあり、北は丸太町、南は五条までしかありません。平安京には存在しなかった通り名ですが、それは1590年に豊臣秀吉が行った天正の地割りにより新設された通りだからです。
 平安京が出来た当時は、通りと通りの間隔は全て約120mに設定されています。現在でも京都市街地の地図を見ていただければわけるのですが、東西に延びる主な通りの間隔は約120mのままです。しかし市の中心部に限れば、南北の通りの間隔は約60mです。天正の地割りでは、南北の通りの中間に新しい通りが造られたためです。それは東西が河原町と堀川の間、南北が丸太町と五条の間ということになりますが、桃山時代は京都の市街地はこの範囲であったという事です。今から考えますと街も大変コンパクトでしたね。
 名前の由来は、この通りを上がれば(北へ行けば)ちょうど京都御所の東南端に突き当たり、豊臣秀吉が伏見から御所に参内する時に利用したことからこの通り名がついたといわれています。

寺町通り

寺町通り  当店より一筋東にある通りです。平安京における東京極大路にあたり、元々はここが都の東の端という事になります。応仁の乱以降、市街地の戦火で廃退した寺を豊臣秀吉が天正の地割りにあたりこの通りの東側に集めたためこの通り名になりました。今でも本能寺を始めとしてたくさんのお寺が通り沿いにあります。またこの通りには老舗の仏具屋、筆屋、本屋、紙屋、茶道具屋さんなどもたくさんあり、門前町として栄えた名残が見られます。
 写真は御池通りから見た寺町通りです。御池と四条の間はアーケードになっていて、京都の中心街の一つです。アーケードのある区間を元の通り名を冠して「寺町京極」と呼んでいます。東京では街の商店街を「○○銀座」と呼ぶことが多いと思いますが、京都ではたいてい「○○京極」と今でも呼んでいます。

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